夜明けのスッテンコロリン ➖phooのレポート入院➖
レポーターのphooです。
僕がお母さんの服にくっつけておいたヒゲの特派員から報告が入りました。
お母さんは左大腿骨転子部骨折で入院しましたーと。
手術は7月18日。
何故すぐに手術をしないかというと、以前発症した脳梗塞の再発防止のために、
血液サラサラの薬をずっと服用していたからです。
このまま手術をしてもし、血が止まらなくなったら大変なので、一旦薬を変える期間が必要なのだとか。
その間に足を引っ張ってずれている骨をまっすぐにするそうで、その器具の画像が、送られてきました。
なんか手作り感一杯ですが---。
これがベッドの足元に拡がっていて、お母さんの足首と繋がっているので、
約1週間動くことができないのです。
さて、次は手術のレポートです。
ハンドタオルにくっ付けておいた、尻尾の抜け毛特派員がレポートしてくれるでしょう。
では、ニャオ(チャオ)!
夜明けのスッテンコロリン ➖phooのレポート 救急車➖
レポーターのphooです。行儀が悪いというか、変な格好してますが、
7月12日木曜日の夜明けに、お母さんは転倒してこんな風に左足をいためました。
最初はそれほど痛くなかったようです。
とにかく病院に行くにもまだ早過ぎると、お母さんはベッドに腰掛けていました。
オイオイ、ええんかいと、僕はハラハラです。
お母さんはしばらく救急車について調べていましたが、まず#7119に電話しました。「脳梗塞の後遺症で左半身麻痺、2級の身体障害者ですが、さっき転倒して歩けません。この場合は救急車を呼んでもいいでしょうか?」
「ご本人ですか? もちろん、呼んでください!」
当たり前だにゃー。
それでもお母さんは、まだベッドに腰掛けたまま。友人のMさんや通所リハビリのH先生、ケアマネージャーのNさんに電話をかけていました。
「どこの病院に運んでもらうのがいいでしょうか?」
「J病院がいいんじやない?」
「でもまだ早い。早朝はかえって混んでて、何処へ送られるか分からないから、9時っ過ぎに」
まあ、左側が麻痺していて感覚が鈍いからか、痛みが感じにくかったからできた情報収集の時間でした。
そして9時過ぎに救急車のサイレンが聞こえてきて、3人の見知らぬ男性が入ってきたので、僕は窓辺に退散しました。
玄関で待っていたお母さんは、椅子のストレッチャーに乗せられて2階からおろされると、下に止まっていた救急車の中に消えて行きました。
お兄ちゃんも一緒に-----
それからお母さんには会えないままです。寂しいにゃー、寂しいにゃー。
お母さんもきっと、僕に会いたがっていると思います。分かるんです僕には!
それは、お母さんの服やカバンなんかにくっ付いた僕の毛が、テレパシーを送ってくるのです。
だから僕はまだまだレポートを続けます。お母さんと逢える日まで-----
次は、いよいよ病院に入院です。
ニャオ!(チャオのつもり)
夜明けのスッテンコロリン ➖phooのレポート はじまり➖
phooです。
毎日 暑い日が続いてるにゃん。
そして僕は今、とっても悲しくて寂しくて、毎日鳴いて暮らしてるにゃん。
チョット痩せたニャー。
それは去る7月12日木曜日の夜明けに起こった事故が原因で、
僕はその一部始終を見ていたので、ここにレポートしたいと思います。
7月12日午前4時になった頃、お母さんがベッドから起き出しました。
僕は慌てて涼んでいた窓辺から下に降りました。
いつものお母さんなら夜1時半頃に眠って、朝7時半までぐっすり眠ります。
ところがその日は何だかボーッとしているようす。
僕がもう朝食かなと、喜んでキッチンの方へ行こうとしたら、
お母さんは反対の方に行こうとしました。そちらはライティングビューローが置かれているだけの行き止まり。キッチンやトイレに行くんだったら反対です。
ああ、そうか、杖が立て掛けてあるなと、思った瞬間、
お母さんはまるで歌舞伎の見栄でも切るかのように、とっ、とっ、と、とんとんとんと、よろけました。そして僕が呆然としているうちに、
ドッシーーン、ガチャン!
と、転倒です。
それからが大変でした。
お母さんはまず、隣の部屋で寝ているお兄ちゃんを起こそうとして、少しチューちょしていました。お兄ちゃんは最近仕事が忙しくて、一時間ほど前に帰宅して寝たばかりだったからだと思われます。
でもやはりそれどころではなかったのでしょう。近くの携帯を見つけて、お兄ちゃんにかけていました。
僕は今度こそ朝食だ!とキッチンに行って静かに待っていました。
にゃんとも面目ないのですが、ここからしばらくはレポート中断です。
手っ取り早く結論を言うと、お母さんは病院に入院ニャう(ナウ)です。
急にブログの雰囲気が変わってご迷惑をおかけしますが、
先ず夜明けに起こったスッテンコロリンから現在までを随時、私phooめがご報告していきたいと思います。
ただ世にも知られた、移り気な猫のこととて、あまりご期待なさいませんように。
次は救急車と病院選びについてレポートいたします。ニャン。
手作りの贈り物 2
3年半ほど前に脳梗塞を発症し、左半身麻痺の後遺症で2級の身体障害者になる前は、割合手先が器用な方でした。
編み物、洋裁、織物、彫金、皮工芸、ホビンレースなど、モノになったものやならなかったもの様々ですが、習い事に夢中でした。
身体が不自由になって一番悲しかったことは、物を創り出せない、又は創れても前のように上手くはできないーということでした。
そしてもう残りの人生で作ることもないだろうと、いろいろなものを捨てました。
織り機、彫金道具、色とりどりの糸や毛糸、ため込んだ布地や端切れも。
でも不思議なことに好きな事、「物を創る 」ということをやめることはできませんでした。たとえなかなか効果の出ないリハビリの中でも。
デイサービスで陶芸をし始めると固い陶土をこねるからか、肩から腕、指先までが少しずつ、前よりは動くようになってきています。
思いがけず嬉しい事に、整理した時にもらって頂いた布が、 今度は草鞋になって返ってきました。(上の画像)
やはり同じデイサービスで、手作りが好きな方からの贈物です。不自由な足のために履きこなす事はできずにいますが---。
これは、私が3人分の出産祝いを作っている、その最初の一品、犬のスタイです。これからブタのスタイやウサギの帽子と続く予定です。
昔ならすぐに仕上げていたものが、今は10倍位の時間がかかります。
でも気付いた事がありました。
手作りの贈り物をするという事は、私自身に手作りの時間という楽しい贈り物をもらっているのだと。
また次もupします!
手作りの贈り物
今朝、デイサービスに向かう送迎バスの中で、窓際に座っていたSさんから、入り口近くに座った私に、何かが届けられました。
Sさんはデイサービス利用者の中でも最高齢者の三本の指に入る女性です。来年は100歳になられるとか。ん? たしか3、4年前に94歳だとお聞きした気がするのですが---。多分、満とか数えとかの違いなんでしょうね。
さて、薄い台所用のビニール袋に入って届いたのは、キッチンペーパーに包まれた、Sさんの手作りの美しい手毬でした!
「えっ、Sさん、私に? 頂いていいんですか?」
「もっと色が地味な方が良かったかもと思ったけど。なかなか糸を買いに出られないから。娘に送ってもらうのもなかなかで」
会話があまり噛み合ってないのは、Sさんの耳が遠いからです。来年100歳というSさんの悪いところは耳だけです。買い物に行けないのは、福島で震災に遭って娘さんに呼び寄せられて、東京暮らしはまだ短いから。足腰は丈夫だし、頭もはっきりしています。ただ、私に手作りのプレゼントをしてくださるとは思ってもいませんでした。
デイサービスの利用中にはあまり話したことも無くて、送迎バスの中で話すくらいです。強いて言えば、その時私が根気よく聞いていたからかな? 福島で震災に遭って怖かった話は20回くらい。大東亜戦争で亡くなったお兄さんの話は10回位。亡くなったご主人が勝手に突然部下を連れてくる話は5回くらい。
でもね、100歳になる人ならそんなの当たり前です。Sさんより40年近く若い私ですが(スンマセン、年齢はチョットサバ読みましたが)、息子はしょっちゅう煩そうにこう言います。
「お母さん、それ聞いたの3回目だよ」
こう言われるの、ホント腹立つんですよ。「夫なら言わなかったのに」と言ったら、
「夫は聞いてないからだよ」と。たしかに。
とにかく、思いがけない頂き物をしましたが、手作りというのは殊の外嬉しいものです。
デイサービスでは今、ベビーブームですが、あっ、利用者じゃありませんよ。3人の職員さんです。
私は手作りのプレゼントをしようと思っています。
作り始めています。3人分ですから大変です。出来上がったらまたupします。
友人のMさんも初めて手作りのプレゼントに目覚めて、毎日夢中で作っています。
布草鞋を。。。
赤ちゃん、草鞋、履くかい?
まあ、気は心。
おたのしみに。こちらもupしますね。
最強のふたり
デイサービスで知り合って仲良くなったMさんとは、もし病気になっていなかったら知り合うこともなかったし、そしてたぶんこんなに親しくなる事もなかっただろうと思います。
初めて会ったのは3年前、運転手と助手の他に6〜8人位が乗る デイサービスの送迎車に、利用の曜日を変えたMさんがいて、私が隣に座った時でした。
聞いていいものかと迷いながら「どこがお悪いのですか?」と、私から話しかけました。
「元の病気は癌なんですが、それは治ってもう退院という時に微熱が下がらなくて、そのまま10ヶ月眠り続けました。目が覚めて主人に言った最初の言葉は、『私の年金おりてる?』だったの」
それから私と彼女は意気投合し、友達になりました。
年齢は彼女が1歳上で、デイサービスの利用者の中では若い方です。ふたりとも身体障害者ですが認知症はなく、口は達者でよく喋り、よく笑います。
が、似ているのはそこまで。家庭環境から趣味や嗜好まで全く違います。一番違っているのは、彼女がアウトドア派で私がインドア派ということかな。私は運動音痴だけど彼女はプロのボーラーなのです。。と言っても、中山律子さんのギャラが200万のころ、彼女は3万だったとか。でもまぁ、正真正銘のプロに間違いありません。(ちなみにその時のコーチが現在のご主人だとか)
病気になる前はゴルフに夢中で、米軍の基地内にある座間、多摩ヒルでプレーした月例でのハンデ 7が、最高記録だとか。ゴルフを知らない私には分からないまでも、女性のプレーヤーとして凄いのだろうなとは察せられます。
対して何の才能もない私は、夫の画廊を手伝って働いていたので、ほとんど外には出ませんでした。門前の小僧で少しは美術に詳しくはなりましたが。
病気になる前は洋裁を教えたり織物や彫金を習ったり、文章を書く事も好きでした。
トホホ、Mさんに比べたらお恥ずかしい経歴です。
こんなに違う二人が、どうしてあっという間に気が合い、こんなに仲良くなったのでしょうか?
一つだけ思うことは、同じように病を持って、同じように現実を受け入れて、同じように前に向かって行こうとしていること。
今デイサービスでの私たちは、彼女がいろんな情報を仕入れてくるのが上手です。あの人はこう、この人はこう、と。それを聞く私は父親譲りの無鉄砲で、あっちやこっちでやっつけて回っています。たぶんそれが直接か間接かの所為で、デイへ来なくなった人が2~3人はいるかも。
全く最強のふたりは、はた迷惑なふたりでしようね。
でも退屈な毎日を笑い飛ばすにはいいでしょ? これからも頑張りますわよ。
一ヶ月程もブログを書かなかったので、はてなさんからメールが届きました。
それで慌てて書き始めて、もっと短くするつもりでしたが---。更新していない間も覗いてくださった方、有難うございました。
短くても、もう少し早く更新できるように頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。
MeToo
セクハラ関連のニュースが後を絶ちません。
財務省で「MeToo」の抗議プラカードを持った野党議員を見て、「セクハラとは縁がなさそうな面々だが」みたいなことを言った議員がいましたが、あれはどういう意味で言ったのでしょう? まさか女性議員たちがブスだとか、ババァだとか、そんな失礼なことを含ませているのではないでしょうね?
なぜならセクハラの被害を受けるのは、若さとか美醜とかとは全く関係がないからです。
世の遅れている男性は驚くかもしれませんが、例えば平均年齢80歳を超えていそうなデイケアサービスの施設の中でも、
「セクハラはあります」(「スタップ細胞はあります」風にきっぱりと)
男性(ここでは爺さん)が女性(ここでは婆さん)にちょっかいを出してからかう、囃す、触る(腕や背中ですが)という事は日常茶飯事です。
けれども半世紀以上セクハラに耐えてきた女性達にはもはや、ハエがとまったかその羽音くらいにしか感じていません。
が、腹立たしいのは、いみじくもジジイどもが放った次の言葉です。
「彼女も案外喜んでるよ」
この馬鹿げた大いなる勘違いこそが、セクハラを生む大きな原因であると思います!
---と、腹を立てている私は、セクハラの被害にはあっていません。なぜなら気を使う取引先とか上司とか、ご機嫌を取りたいと忖度する事項も無いので、その場で即、加害者をやっつけるから。
あゝ、一人例外の人物がいました。
Sさん
彼が入浴に向かう時に出くわすと、「一緒に入ろ」と 車椅子の上から手招きします。
それからウォーキングマシンを使っていると、自分もやりたいと駄々をこねて職員を散々困らせてから、「歩けるようになったら、一緒に庭を散歩したいねぇ」と誘ってきます。
彼が乗った車椅子とすれ違う時は、お触りに来るのでこちらも杖で防護します。
デイケア施設の全ての女性に分け隔て無く、そんな風にして回るので有名でした。
ところがそれも徐々に少なくなり、なんだか少し痩せたみみたい。そういえば最近姿を見てないと思ったら、先月亡くなられたそうです。
今頃は花が咲き乱れる天国の庭を、やさしい天女さまと手をつないで散歩しているかしら。
そういえばSさんは、私がやっつけていない数少ない男性です。セクハラには断固立ち向かう私も、彼の悪戯っ子のような、無邪気げなニコニコ顔に騙されていたのかもしれません。
Sさんのご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
ねこのねごと
「猫を飼ってみたら?」と勧めてくれたのは、
脳梗塞の後遺症で入院していたリハビリ病院の療法士の先生でした。
実は脳梗塞を発症する1ヶ月ほど前に、一緒に暮らしていた猫を亡くしたばかりで、
そのときの悲しさからもう猫は飼うまいと決意したつもりでした。
ところが(もう一度飼ってみようか)という思いが芽生えてしまうと、もうダメです。小さい芽はどんどん成長して、心の中を覆い尽くすほどになってしまいました。
それで息子に頼みました。
「ねぇ、ネコ飼っていい?」
「ダメ! 半身麻痺の人が世話できないでしょ」と、息子。
「でもかえってリハビリになるかもしれない。ねっ、お願い」
(あっ、これって---息子が小学生の頃よく交わした会話だ! 立場は逆で---)
こうして息子を拝み倒し、ようやく(半分は焦らされて)OKを貰ってから、前のねこがお世話になった動物病院に電話をしました。
「保護ねこが一匹だけ残ってます。ちょっと大きくなってしまって、七ヶ月の子ですが」
これがphooでした。
上の画像の右に座っているお兄ちゃんねこです。怖がり屋で隠れてしまうので、最後まで残ってしまったとか。写っているのは、甘えん坊の弟を守っている凛々しいお兄ちゃんに見えますけど---。
息子が動物病院から連れてきてキャリーバッグから出した時、あっと思う間もなく走り出てきて私のベッドの下に隠れてしまいました。それから一週間、私が見たのはベッドの下の暗闇で光っている目だけ。置いておいたご飯と水も3日ぐらいからいつの間にか無くなるだけで、姿は見えず。
それが今では危ないくらい足にまとわりつくし、毎晩ベッドの上に上がってきて、私の顔のそばで寝ています。
そうそう、寝言のことでした。
春の季語に「猫の恋」があるくらい、春の夜はあちこちで猫の鳴き声が騒がしくなります。
でもうちのphooは知らん顔。だって保護された時に素早く去勢されてますから。
2,3日前の、ことのほか外の鳴き声が騒がしく、さすがのphooもじっと窓の外を眺めていた夜のことです。
「ニャーーーーーン」
私の耳元でphooが寝言を言ったのでした。でもその鳴き方は恋の言葉というより、
子供の頃に遊んだ弟の夢を見ていたように聞こえました。
昨日phooを動物病院に連れて行きました。
トイレに入るとなかなか出てこないし、回数が多い割には猫砂が汚れていません。結石にしては痛がらないし、便秘くらいかもしれないけれど、とにかく診てもらいに行ったのです。
なにしろ小さい頃からの怖がり屋さん。キャリーバッグにも入らないので大変でした。お兄ちゃん(息子)は引っ掻かれて血だらけ。聞いたこともなかった野太い声で鳴くので、タクシーの運転手さんには謝り通し。
でもそんなにしてでも連れて行って正解でした。
『ストルバイト尿石症』という病気で、もし気付くのが遅くておしっこが出なくなってから行っていたら、2日くらいで亡くなるときもあるとか。
ああ、間に合ってよかった!
もしかしたらphooは寝言で私に訴えていたのかもしれません。
食べ過ぎはダメ
腰痛余話
私の腰痛は完全に治っていますが、そのスピンオフを。
先月のことになります。
まだ腰痛が治らず、痛み止めを飲みながら通所リハビリに通い、疑心暗鬼のままで鬼の施術を受けていた頃のことです。
新しいリハビリ患者が入ってきました。まだ40歳半ばの男性です。
最初にみんなの前に出る時は誰でも、ちょっと緊張した顔をしているものです。
ところが彼はニコニコ笑って、派手なビッコをひきながら杖を掲げて、「ちわーっス」って。髪はモヒカン刈り! 石の代わりに胡桃でもカチ割れるほど重そうな靴。
何でも面白そうに笑うのは、芸人に喜ばれそう。笑う合間に入る喋りは、不自由な足と一緒で少しつかえる。
でも、この声や笑い顔はどこかでー。
家へ帰ってからテレビを見ていて、ハタッと手を打ちました。
俳優で歌手の、「峯田和伸」に似ているんです。(知らなかったら、ネットで調べてみて) 天然というか、今時珍らしくピュアな感じが。
彼は、私が受けていた鬼の施術を見て、「痛いンっスか、くっくっくっ」と、、、笑ってました。他の人たちが自分へのとばっちりを避けて、目をそらせていたのに。
そして一ヶ月経って4月。
峯田和伸もどき君が兄に付き添われ、苦悶の顔でやってきました。
「野球でバッティングやってて、ぎっくり腰みたいになったンスよ」
「あっ、いや、甥と遊んでたから、プラスチックのバットとボールですが」(と、兄)
なーんだ、オモチャでかい。
ともあれ、兄の付き添いがあったにせよ 、痛み止めなしでリハビリに来たのはさすがです。
あとは私の時と同じ、マットに寝かされたまな板の鯉に、H先生の鬼の施術。その後「起きて運動しなさい」ただそれだけです。
「起きるのも痛いっす。動けるかなあ」
私は優しき先輩として忠告してあげました。
「ちゃんと治るから。H先生を『ゆめゆめ疑うことなかれ』よ」
峯田和伸もどき君は半信半疑の顔で、それでも素直に、
「ウィッす」と答えました。
後でH先生が、
「『ゆめゆめ疑うことなかれ』って、インチキ占い師なんかが言うんじゃないのぉー」
と、文句を言ってました。
腰痛がどうなったか、今度峯田和伸もどき君に会うのが楽しみです。
春の憂鬱
デイサービス施設の中庭で、スミレが暖かな陽射しを浴びて咲いているのを見つけました。
桜が咲いて、やがて散るころになると、私は小学生の頃を思い出します。
60年も前のことです。クラスのみんなから『ちび・でぶ・のっぽ』と呼ばれていた仲良しトリオの女の子達がいました。
「のっぽ」は私。中学で止まってしまったけど、昔はクラスで一番背が高い女の子でした。
「でぶ」は今でも---。そして今は田園調布の素敵な家でケーキを食べてないときは 、タカラヅカに狂っています。
「ちび」はクラス一のおちびさん。それがつい四年前に全身の末期癌で入院していました。私が脳梗塞で入院した時で、互いにお見舞いには行けないけれど、みんなが寝静まった真夜中の別々の病院のベッドの中で、「痛くて眠れないの」という「ちび」に、「ちび」より背が低くなった「のっぽ」はメールを送り続けました。
お花が好きで、イギリスに留学してフラワーコーディネーターになっていた「ちび」が、抗がん剤の副作用でアレルギーが出て、もう花に触れなくなったと言っていたのが、
やがて桜が散るころに亡くなってしまって、
もうじき三年になります。
最近「のっぽ」は「でぶ」に、「ケーキは我慢して、長生きしてね」とメールを送ります。自分の方が後に残るのはいやだなと思うから。
こうして失うことが怖いから、いろんなことを我慢しているのかしら。
今日のリハビリの時に、隣にいた86歳のシスター(本物のクリスチャンの尼さん)が、「左の耳が聞こえなくなってきて」と、会話を聞き取れなかった左隣の人に謝っていました。
そして右隣の私に、「味覚もだんだんなくなって---」と、
「甘い、辛いは分かるんだけど、美味しいかどうかは---。もういろんなものを少しずつ、神様にお返ししているんです」
なんだ、そうか。借り物か。いつかみんな返すのか。
リハビリやデイケアに行くと、人生の先輩方がたくさんいます。
こちらは理学療法士や作業療法士の先生達とは違う、人生療法士。
時々わけもなく憂鬱な時に、施術してくださいます。