悲しきDNA

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脳梗塞の後遺症で歩行には杖をついていますが、ふだん自宅の中では壁や柱をつたったりビッコをひいて歩いています。ときどき夜トイレに起きると、リビングの明かりを背にして歩く自分のシルエットにハッとします。とっくに亡くなっている祖母と、あまりにも歩き方が似ているので。

祖母は若い頃は◯◯町小町と言われたそうで、古い写真には少し気が強そうなきりっとした美人が写っていますが、私の記憶の中では足の神経痛でビッコを引き、外に出たがらないガンコ婆さんでした。家族みんなで旅行に行く時も嫌がって手こずらされました。

祖父は家業の酒屋の他に、推されて市会議員も勤めていた優しい人格者だったそうですが、私が小学校入学前に「お祝いにランドセルと机を買ってやろうな」と言ってから、約束を果たさずに脳溢血で亡くなってしまいました。

祖父母の4人の娘、その長女である私の母は、祖母の気質を受け継いで気が強くきりっとした性格で、いつも眉間にシワを寄せていた気がします。小学校の国語の宿題で私が作った短歌を今でも覚えています。

『久しぶり  母の鼻歌  今日聞きて  歌は下手でも  皆聴き惚れる』

あぁ今日は、お母ちゃんの機嫌はよさそうだとー小学生の作品ですから下手くそなのはお許しを。

今になって分かるのですが、母は頭痛持ちだったのです。65歳のときクモ膜下出血で倒れました。幸い命は取り留めて退院できるほど元気になった時は、眉間のシワなどどこへやら。コロコロとよく笑う楽しい母でした。

しかし母は祖父のDNAを恐れて、自ら望んで再び脳の手術をし、失敗して8年間寝たきりで亡くなりました。

私は、祖父の、母の、DNAを確実に受け継いでいます。更に父のDNAもあるわけで、これはパーキンソンやらアルツハイマーやら、ややこしくなるのでまた機会があればということにしますが、とにかく『脳血管』関係の病気になると予言されていたようなものです。そして予言通り『脳梗塞』となりました。

私の子供達はーーいずれ気をつけなければならない年齢になると思いますが、一筋の光明は私の夫の、つまり父親のDNAなら脳は大丈夫らしいことです。かわりに心臓とか癌が気になりますが、病気にならない人も死なない人間もいないのだからしようがないわね。

娘が大学生くらいの時、どういう話の続きだったのかは忘れたけれど、突然、

「働いてお給料がもらえるようになったら、お母さんを花巻温泉に連れてってあげるね」

と言ったことがあります。私が宮沢賢治が好きで、いつか行きたいと言っていたのを覚えていてくれたのです。池袋の駅の地下道をふたりで東口から西口へ歩いていた時でした。嬉しくて泣きだしそうになりました。

後からそれを思い出して考えたのは、

「娘は私よりずっといいDNAをどこかから受け継いだな。私は母にあんな嬉しい言葉を言ってあげたことがなかったもの」

ということでした。

祖母にも言わなかったし、手を引いて外出させてあげることもなかった。父を喜ばせてあげることもなかった。あんなに愛してもらったのに。

歳を取ることが辛くて悲しいのは、いろんな事を忘れていってしまうからではありません。

むかし出来たのにしなかった事が、いつまでも忘れられないからなのです。

 

寝たきりになった母を病院に見舞った時のことです。

忙しく働いていた看護婦さん達も途絶えた、昼下がりの穏やかな時間でした。母にふと、「私なーんにも親孝行してないね」と言ったことがありました。すると母は、

「そうでもないよ」

と言ってから、ふふふと笑ってベッドの布団の中で、「ぷっ」と可愛いおならをしました。あの時ふたりで一緒に笑ったけど。

私は今でも泣きたくなるのです。