腰痛のその後

f:id:a-yu-k2471:20180314134801j:plain (デイサービスのマシーン)

 

前回、腰痛で困っていることなどを愚痴りました。

その後どうなったか?

まずリハビリのH先生に謝ります。(先生はこのブログ知らないんだけど)

リハビリを休むと連絡した時、先生が電話口に出てきて、

「迎えに行くから、出てきて施術をうけろ」

と言われた時、(この鬼!、痛いから行けないんだ!動けないんだ!)

と叫びました。(心の中で)

湿布でも貼って寝ていた方が治ると思っていました。(その方が楽だし)

痛み止めは我慢していました。それでなくても脳梗塞を起こしてから、毎日6種類の薬を飲んでいるのですから。

そんな時、やはり休んでいたデイサービスからは、

羽生結弦くんも痛み止め飲んでるよ。がまんしないで」

と、やさしきお言葉が届きました。

まっ、私も金メダルが取れて報奨金が1000万円貰えるなら、とっくに飲んでたんですが。

湿布貼って寝ていても一向に治らないので 、とうとう痛み止めを飲んでリハビリに行き、H先生の鬼のような施術を受け、やはり痛み止めを飲みながらデイサービスにも行って少しずつ動くようにしました。

 すると-−-何ということでしょう! いつの間にか---治ってしまったのです!

動けば治るという言葉を疑って、リハのH先生ごめんなさい。

デイの優しきKちゃん、ありがとう。

夕飯のおかずを届けてくれたMさんとご主人に、感謝。

あゝ、痛みがないって、何て楽なの。

私は、金メダルを獲るより幸せ者です。(報奨金は欲しかったけど)

と、ここで終わればいいのですがーー。

暫くして、 

ちょっと身体が楽になったし、ちょっと暖かい日もあつたので、近くのスーパーまで出掛けました。phooのご飯がなくなってしまったので、一年近くぶりにシルバーカートを押して行きました。次の日、ーー

ーー今度は腕が上がらなくなりました。

馴れないカートを緊張して押した為に、広背筋を痛めたようです。

もう要領はわかっているので、痛み止めと、鬼の施術と、デイのマシーンで、幸い1週間程で治りましたが。

 

リハビリで一緒の方が、実にうまい喩えを仰いました。

 

「私たちは『返し縫い』みたいな毎日ね」

 

この縫い物はいつ仕上がるのでしょう。

腰痛雑記

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月に2回くらいのペースでブログを更新する予定が、今月は無理なようです。

原因は『腰痛』

もう10日以上デイサービスもリハビリも休んでいます。

最初は痛い理由が分からず不安でした。転んだのでも(骨折)、打つけたのでも(打撲)ないし、なんとか狭窄症というもので手術する事になったらどうしようと。

しかしリハビリの先生に「筋痛です」と言われてからは、湿布でもしておけば直ぐ治るだろうとタカを括っていました。

ところでこの湿布が大変なのです。湿布そのものはなんとか使用期限内のものが残っていましたが、背後の腰の痛む箇所にピタリと、自分で貼れそうにはありません。

昔は良かったんです。左手は麻痺してなかったし、右手もけっこう届きました。それになにより、夫が居ました。

新婚当時は「チョット貼ってくれる?」と言うと、嬉しそうにいそいそ貼りにきたし、古女房になってからは面倒そうな顔に変わったけど、まぁ貼ってくれてました。

しゃーない。息子に頼もうと、背中をめくってパンツとズボンをお尻ギリギリまで下ろして、ソファにもたれて呼びました。

私ーー「チョット貼ってくれる?」

息子ーー「はーい。ちよっと待って、今途中だから」

(何が途中だ。どーせゲームだろう)と思いながら、母は黙って待ちます。就寝前のエアコンも切った部屋で、半ケツ姿で。

(最近ニュースでよくありますね。老母を蹴飛ばして死なせちゃった、介護疲れの息子の事件。どうか、そう遠くない我が未来になりませんように)

ところがちようど次の日、テレビで観たんです。

事件のニュースじゃありませんよ。

自分で湿布が貼れる器具がホームセンターに売ってる、って!

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自分で軟膏が塗れる器具もあるようです。

長生きはしてみるもんです。これも一人暮らしの老人が増えたからの発明ですかね。

話が逸れましたが、そんなこんなで、腰痛で何も出来ないまま日が過ぎ、ブログが更新できなかった訳でした。

早く春が来ますように。

悲しきDNA

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脳梗塞の後遺症で歩行には杖をついていますが、ふだん自宅の中では壁や柱をつたったりビッコをひいて歩いています。ときどき夜トイレに起きると、リビングの明かりを背にして歩く自分のシルエットにハッとします。とっくに亡くなっている祖母と、あまりにも歩き方が似ているので。

祖母は若い頃は◯◯町小町と言われたそうで、古い写真には少し気が強そうなきりっとした美人が写っていますが、私の記憶の中では足の神経痛でビッコを引き、外に出たがらないガンコ婆さんでした。家族みんなで旅行に行く時も嫌がって手こずらされました。

祖父は家業の酒屋の他に、推されて市会議員も勤めていた優しい人格者だったそうですが、私が小学校入学前に「お祝いにランドセルと机を買ってやろうな」と言ってから、約束を果たさずに脳溢血で亡くなってしまいました。

祖父母の4人の娘、その長女である私の母は、祖母の気質を受け継いで気が強くきりっとした性格で、いつも眉間にシワを寄せていた気がします。小学校の国語の宿題で私が作った短歌を今でも覚えています。

『久しぶり  母の鼻歌  今日聞きて  歌は下手でも  皆聴き惚れる』

あぁ今日は、お母ちゃんの機嫌はよさそうだとー小学生の作品ですから下手くそなのはお許しを。

今になって分かるのですが、母は頭痛持ちだったのです。65歳のときクモ膜下出血で倒れました。幸い命は取り留めて退院できるほど元気になった時は、眉間のシワなどどこへやら。コロコロとよく笑う楽しい母でした。

しかし母は祖父のDNAを恐れて、自ら望んで再び脳の手術をし、失敗して8年間寝たきりで亡くなりました。

私は、祖父の、母の、DNAを確実に受け継いでいます。更に父のDNAもあるわけで、これはパーキンソンやらアルツハイマーやら、ややこしくなるのでまた機会があればということにしますが、とにかく『脳血管』関係の病気になると予言されていたようなものです。そして予言通り『脳梗塞』となりました。

私の子供達はーーいずれ気をつけなければならない年齢になると思いますが、一筋の光明は私の夫の、つまり父親のDNAなら脳は大丈夫らしいことです。かわりに心臓とか癌が気になりますが、病気にならない人も死なない人間もいないのだからしようがないわね。

娘が大学生くらいの時、どういう話の続きだったのかは忘れたけれど、突然、

「働いてお給料がもらえるようになったら、お母さんを花巻温泉に連れてってあげるね」

と言ったことがあります。私が宮沢賢治が好きで、いつか行きたいと言っていたのを覚えていてくれたのです。池袋の駅の地下道をふたりで東口から西口へ歩いていた時でした。嬉しくて泣きだしそうになりました。

後からそれを思い出して考えたのは、

「娘は私よりずっといいDNAをどこかから受け継いだな。私は母にあんな嬉しい言葉を言ってあげたことがなかったもの」

ということでした。

祖母にも言わなかったし、手を引いて外出させてあげることもなかった。父を喜ばせてあげることもなかった。あんなに愛してもらったのに。

歳を取ることが辛くて悲しいのは、いろんな事を忘れていってしまうからではありません。

むかし出来たのにしなかった事が、いつまでも忘れられないからなのです。

 

寝たきりになった母を病院に見舞った時のことです。

忙しく働いていた看護婦さん達も途絶えた、昼下がりの穏やかな時間でした。母にふと、「私なーんにも親孝行してないね」と言ったことがありました。すると母は、

「そうでもないよ」

と言ってから、ふふふと笑ってベッドの布団の中で、「ぷっ」と可愛いおならをしました。あの時ふたりで一緒に笑ったけど。

私は今でも泣きたくなるのです。

 

ガキの使いやねん

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今年の初めに目標を二つ掲げました。

ひとつは、今年こそ貯金します!

ふたつ目は、自分で買い物に出かけます!

貯金と買い物…一見矛盾しているようですが、実は深い理由があるのです。それは…

 

私は3年余り前に発症した脳梗塞の後遺症で、左半身麻痺の身体障害者となりました。脳梗塞の病院からリハビリの病院に移った時、運動着にするトレーナーを2着ほど買ってきて欲しいと息子に頼みました。

思えばこれが、自分で買いに行かなかった最初の品物です。受取ったトレーナーが私の趣味に合わなかった訳ではありませんし色も良かったんですが、運動着としては失敗でした。なぜか裾に切り替えがあって、後ろが短いのです。リハビリ運動や施術の時に後ろが短いと、パンツが出ないかい?

その後、娘が買ってきてくれる物には何の不都合も感じたことが無いので、やっぱり男には買い物を頼まない方がいいと、その時思いました。

しかし退院して息子と暮らす家に帰ると、不自由な足で買い物には出かけられなくなっていました。一番近いコンビニに300歩、スーパーまでは500歩余りなのに。

そこでほとんどの買い物をインターネットに頼るようになりました。ネットスーパーから食料品や生活雑貨が届きます。重いお米や飲料水も玄関まで運んでもらえます。衣料品は分厚いカタログから選びます。電化製品もペットのオモチャも、クスリや介護用品も、何でもかんでも揃っています。

が、これがネットの危険な罠でもあるのです。奴等は無防備な消費者を絶えず見張っていて、これを買った人間なら次はこれを、これを検索した輩ならこれはどうだと攻撃してきました。テレビで観た遺骨散布について検索したら、永代納骨堂の案内までメールしてきましたよ。

ネットサーフィンして暇つぶしをしているうちに、ついつい何か買ってしまうー私は狙われ易い愚か者です。さすがに永代納骨堂は頼んでませんが、脳梗塞のホームリハビリ用DVDや電動風呂洗い機、等々は後悔していることを白状します。そして今年はネットの買い物をやめて貯金しようと決意しました。

しかしそれには、自分で買い物に出かけなければなりません。今迄のようにちょっとしたものを息子に頼む事もやめようと思います。

以前 息子に風邪薬を頼んだら、「◯◯を」と見本まで見せたのに、聞いた事もないメーカーの薬を買ってきました。薬屋がこっちの方がいいと言ったとか。◯◯よりこっちの方が、儲けが多いのとちゃうんかい?

またある時、台所のゴミネットを頼みました。わざわざ「ストッキングタイプを」と言ったのに、買ってきたのは不織布タイプでした。「ストッキングは50枚182円だったけど、こっちは99円だった」とか。83円をけちって、ナンボのもんじゃ。

が、母はいつも笑顔で礼を言うだけです。へそを曲げられて、もう頼めなくなると困るから。

そういえば、デイサービスで友達になったMさんの経験談を思い出しました。彼女はご主人に、コーンの缶詰をたのんだそうです。「クリームのじゃなくてホールの。粒のを」と念を押しました。さて、ご主人は何を買ってきたでしょう?

皮をむいて塩茹でしたトウモロコシの真空パック、見たことあるでしょ? アレです。売り場の店員さんが教えたとかで。

かくして買い物に行けない二人の主婦が達した結論は、男はガキの使いやねん。頑張ってリハビリして、自分で買い物に行けるようにならなあかん、と。

これは男たちの大いなるリハビリ向上計画なのでしょうか?

お正月。何がめでたい

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今年も残りわずかとなりました。で、何か?

今日も予定通りリハビリに行って来ましたが、仲間の通所者さん達もいつも通りで、帰る時には形ばかりに「良いお年を!」と言い合ってから「また来週ね!」と別れました。

お正月といっても、デイサービスやリハビリに通う高齢者にはたいして嬉しくも悲しくもないのです。

たとえば大抵の高齢者や身障者は、転んで骨折なんかしたら大変と、人混みの中をわざわざ初詣なんかには行きません。

またある人は、普段はオレオレ詐欺の方がマシというほど電話もしてこない息子が、孫やら曽孫を連れてやって来れば、わずかな年金と減り続ける蓄えの中からお年玉を拠出しなければならないとため息をついていました。

デイサービスの施設内だけで通用する紙幣を印刷して、認知症防止のための計算をさせていますが、「あの紙幣をお年玉だと孫にやったら、昔は喜んでたのになー」と嘆いていた人がいました。(孫も可愛いのは小さい内だけ)

いつもは家族と暮らしている人も、たまには介護を忘れたいと旅行に出かけるみんなを見送って、ショートステイに送られます。

若い頃はみんなの為にと腕をふるったおせち料理も、今は通販で発泡スチロールのお重に詰めて届きます。

テレビをつけると、一年間退屈しのぎに飽きるほど見ていた話題が、順位をつけてまたぶり返される番組ばかり。

それに最近のお笑い番組では、若い人たちとの感覚の違いか、どこが面白いのかさっぱりわからない。

まあざっとこんな風です。 

私の子供の頃のお正月は楽しかった。

着物を着せてもらって家族で近くの護国神社へお参りし、お祖母ちやんや親戚のおじさんたちにお年玉を貰って、姉や従姉妹たちと羽子板をついたり、こたつに入ってトランプをしたり……。

それがだんだん変わってきたのは、結婚してからかな。

嫁ぎ先が自営業で手伝わされていましたから、年末は大掃除が大変でした。3階建ての1階が店舗で、住居の2階にも3階にもトイレがあって、この建物、殆ど私が掃除してました。夫はお飾りをかけて窓拭きと庭掃除。一夜明けてお正月には2人の義妹一家がやって来て、大晦日に作ったおせち料理を2家族で食べ散らかし、私は酒の燗係。2日目になってようやく実家へ帰れても、跡継ぎの姉に「あの子は手伝いもせずに朝寝して…」と言われてのんびりできません。母は「帰った時くらいのんびりしたらええよ」と言ってくれましたが、姑に仕えたことがない養子娘の姉には分からなかったのです。

くっ、くっ、くっ(嗚咽の声)…長男の嫁って可哀想!

だから

お正月? 何がめでたい! 地球が太陽の周りを一回まわっただけのこと。

ようやく『長男の嫁』から解放された今、お正月は寝坊してipadでゲーム三昧(スパイダーソリティアかHome scapes)と思っていたけど、注文していた本が届きました。

佐藤愛子の『90歳。何がめでたい』

読書の正月にします。

良いお年をお迎えくださいませ。

ムジナの靴とクメール語

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中学から高校に上がるくらいの頃、人生を変えるような本と出会いました。

『ヨーロッパ退屈日記』(昭和40年)という伊丹十三のエッセイ集です。当時の伊丹氏は一三の名前だったと思います。

地方の小さな町に住んでいた田舎っぺの文学好きの少女は、宮沢賢治ロマン・ロランヘルマン・ヘッセの本からは学べなかった事を、このエッセイ集から学びました。

当時は町の喫茶店くらいでしか食べたことがなかったスパゲッティを、フォークにくるくる巻きつけて食べることや、まだ乗ったことはなかったけれど外国線の飛行機で提供される「ミモザ」のカクテルの事、見たことも価値も知らなかったルイ・ヴィトンの鞄やエルメスのスカーフ、ルーの下着、シャルル・ジョルダンの靴・・・そして、プジョーの自転車。

でも私の人生を変えたのは、田舎では知る由もなかったこれらのブランドの事ではありません。伊丹一三は書いていますーープジョーの自転車に乗ってカンボジアアンコール・ワットの近くを行くと、水牛をひいて田んぼを耕している農夫が手を振る……(読んだのはもう彼方の記憶で、間違っているかもしれませんが)…こののんびりした風景が脳裡に焼きついて、私の人生が変わってしまったのです。

その頃目指していた美術大学はやめて、文学部史学科で人文地理学を専攻し、卒論にアンコールワットを選んでカンボジアへ行くつもりでした…が、思い通りにはいかないもの…ちょうど卒業近くにはベトナム戦争が激しくなりカンボジア行きは叶いませんでした。

それから田舎っぺ少女はカンボジアなどさっぱり忘れて、普通に日本で主婦になり、母になり、田舎の町で楽しく幸せに暮らしました…とさ。  

って? えぇっー、で? 人生を変えた本の話は? どうしちゃったの?

慌てないで。人生は長いの。

…だんだん歳をとって独りになった時、私はふっと思い出しました。カンボジアの、アンコールワット近くの、水牛の、そのそばで手を振るおじさんの風景を。

多分時代は変わり、その風景も変わっただろうし、手を振っているおじさんより私の方が年寄りかも…

 いったい何がそんなにいいのか、何の値打ちがあるというのか、そう聞かれると答えようがありません。とにかく、少女の頃にみた夢なのです。

私はカンボジアへ移住することにしました。もう引き止める親も、夫もいません。子供達は手を離れ、私の夢を応援してくれました。少しでも助けになるようにと、クメール語も習い出しました…それなのに…私は脳梗塞になり半身麻痺が残りました。

病気は色々なことを諦めなければならないことです。

日本国内の旅行もできないのにカンボジアは無理…諦めました。

左足に固い補助の装具を付けなければならなくなったので、普通の靴が履けなくなり、娘のタイ土産のムジナの赤いスエードの靴も娘に返しました。大好きなCANPERの靴一足以外は諦めて捨てました。

こうして少女の頃の馬鹿げた夢は諦めました。… 

…って、もうお終い? やっぱり人生って変われないの?

いいえ、慌てないで。まだまだ人生は長いの。

半年前から装具は付けなくてもよくなって、普通の靴が履けるようになりました!(ムジナの赤い靴は、いつか娘に返してもらおうかな)

それに、どうしても出来なかった床からの立ち上がり…phooが床に毛玉を吐き出したのを拭いてから…椅子にも台にも掴まらずに…ひとりで立てました!

リハビリの先生は、私が出来ないことの半分以上は怖がっているからだと言います。

…田舎っぺの少女の夢もまだ諦めずにいましょうか…

(クメール語の教科書とCDをまた引っ張り出そうかな)

そうね、怖がらずに諦めなければ、

人生は変えられるかも。

達人たち

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(デイサービス裏庭の農園)

週2日、デイケアサービスに通っています。ここでは利用者が、自分でその日1日のスケジュールを決め、できる限り自分で行動するきまりになっています。もちろん障害の軽重によって違いはあり、移動だけとっても車椅子やカートを押す人や杖をつく人などから、全く元気で闊歩する人などさまざまです。

1日のスケジュールのメニューはーーパン教室、料理教室、陶芸教室、パソコン教室、各種の体操、機械によるマッサージなどから、カラオケ、麻雀、そのほか「ぼんやりする」等等。

私は夏から園芸も始めました。上の画像の農園はほんの一部で、下方の帽子の男性が園芸の師匠です。「師匠」と呼ぶと彼は嫌がりますが、私と同じくデイサービスの利用者で病気の後遺症の軽い麻痺が残っていて杖もついています。

今私が育てているのはセロリと大根。先日間引いたセロリの細い茎と葉を、家で細かく切ってジャコと炒めてふりかけにしました。作り方はデイ利用者のおばあさん達が教えてくれました。美味しかったぁ。

パン教室では、50年以上パン屋さんをしてきたというデイ利用者のおじいさんが、パン生地のこね方などを教えてくれます。柔らかくておいしく焼けます。

やはり利用者で、長く外国で暮らしていたというおばあさんが、英会話を教えてくれる教室もあります。途中で先生が寝てしまうことが多いらしいけど…。

誰かが「布わらじを作りたい」と言ったら「作れるわよ」という利用者さんがちゃんといて、その教室もできました。

「只管」という漢字を即座に読んで教えてくれる、南米で領事館勤めだった楽しいサンバのようなおじいさんもいます。

今は、認知症が入っていても、病気の後遺症で身体が不自由でも、高齢であちこち病気を抱えていても、誰もがかつては輝いていた時を持っています。その輝きは決して失われることはなく、心の中か、脳の海馬の中か、または体の中に刻まれています。彼等は達人たちです。ただ世に出る暇も欲もなかった隠れた名人達です。

このデイサービスの理事長はその独自の運営で雑誌に取り上げられたり、テレビにも出たらしいけれど、利用者の達人たちこそ出るべきだったと思えます。もし、

「プロフェッショナルとは?」と訊かれたら、きっと楽しげに、懐かしそうにこう答えると思います。

「長く生きること」 

アニマルセラピー、ブログセラピー

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私がまだ若くて健康で、運命は自分で切り開くものだと思えた頃、「癒し」とか「癒される」などという言葉は大嫌いでした。

自分を強いと思っていたし、他から癒して貰わなくても充分生きていけるわ、と。

なんとまぁ傲慢で、人生を甘く見ていたことでしょう。

やがて年月が流れ若さや健康を失い、両親や夫や友達さえも喪ってから初めて、

自分は少しも強くはないと気づきました。

その時からアニマルセラピーを受けています。セラピストは上の画像で万歳をして寝ている保護猫のphoo(ぷぅ)。ねっ、癒されるでしょ?

最近はブログを書いてネットセラピーも受け始めました。

実は以前、「はてなダイアリー」でブログを書いていました。はてなスターを贈ったり貰ったり、コメントも貰ったり返事を書いたり。

最初はアクセスが増えると嬉しくて結構楽しんでいましたが、そのうちだんだん辛くなってとうとうストレスになってしまいました。閉鎖した時はホントほっとしました。

だけど今回は、自分のために書けばいい、別にPVが増えなくても、病気のリハビリやデイサービスでの新しい出会いを書けば記録になるし、ボケないための脳トレにもなる。

………でもね、あまりにもアクセスがないのは………やっぱり佗しいものですね。

もう少しして覚悟ができたらみんなに報らせよっかなー。で、それでも変化無しだと余計に侘しいかー。

せめて脳トレになれば……。でも今のところ分からないことがいっぱいで、画像の大きさや貼り付ける場所を変えたいけどどうしたらいいのか、勉強しなくちゃ……。

こうしてストレスと癒しのハザマで、私はブログを書いています。

 

おいしいコーヒーのためのスクワット

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三年前に脳梗塞を発症して左半身麻痺になりました。

幸運だったと思うのは痛みがないこと、利き手の右半身が健側だったこと、発症に気付いたのが早かったことなどです。

それでも退院までに書いたノートには幸運だけではなかった気持ちが残っています。

 

ーーーもはや 働かない。おいしく食べることもない。

                      楽しまない。着飾ることもない。

                      創らない。歌わない。

                      親しい人に自らは近づかない。

                      ほとんど眠っている。

                      死なないから生きている。

 

ーーー「出来たらいいな」と思う事。

             ベッドで一人で起き上がれたらいいな

             トイレで一人でパンツの上げ下ろしができたらいいな

             一人で歯磨き、洗面ができたらいいな

             一人でお風呂に入れたらいいな

 

「出来たらいいな」はすべて出来るようになって、三ヶ月後に退院しました。

脳梗塞の後遺症の回復は、発症後の半年間でほぼ止まるといわれています。

私は既に3年経過しているのでもうこれ以上の回復はないかもしれません。が、

毎日結構楽しいのです。もう少しなんとかなりそうな気もします。病気のおかげでできた友達もいます。

週2日のデイケアサービスに加えて、3ヶ月前から通所リハビリテーションにも行き始めました。

そこでは個別の指導の後、帰る前にみんなで並んで歌いながら同じ運動をします。いつもストレッチとバランスボードとスクワットです。

たとえばスクワットは30回を3セット、間に短かい休憩を2回挟んで3回。合計して270回やります、と簡単に言いますが元気な健常者の話ではありません。上は90歳を過ぎた人から認知症の人、病気で麻痺などが残った人など、10人くらいがやっています。

 私はスクワットはなぜ270回なのか1日に300回ならキリがいいのにと考えて、家で残りの30回をしようと思いました。ーーーん、ところがひとりではなかなかやらないんですよ、これが。歌も歌わないしーーーね。

 

話は逸れますが、私はペーパーフィルターでコーヒーを淹れるのが得意です。デイケアではみんなが美味しいと言ってくれます。コツは簡単で最初に少しだけお湯を注いで豆を蒸らすのです。この蒸らし時間が難しい。つい面倒になって短かかったり、うっかり忘れて冷えさせたりします。

 ここで30回のスクワットの登場です。蒸らしているコーヒー豆の側でこれをやるのがベスト!

1日300回のスクワット完遂、おいしいコーヒーも飲めるーーーというわけです。 

これまでと今とこれから

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(通っているデイサービスの陶芸教室で作った植木鉢カバー)

 

ちょうど5年前に夫を喪いました。

その時に持っていたと思っていたものの殆どを失うか捨てるかしたら、

残ったのは子供2人と、ひーちゃんー本名を「みなもとのひろまさ」という黒斑猫くらい。やがてそのひーちゃんも腎臓病で喪いました。今の棲家に移って2年後のことです。

その後私は脳梗塞に倒れ、左半身麻痺で身体障害者2級、要介護2となり、3年前から週に2日デイサービスに通っています。さらに3ヶ月ほど前から週2日通所リハビリに通い始めました。

退院時に近所の動物病院から引き取ってきた保護猫のphooもそろそろ3歳半になります。

これがこれまでのこと。

 

発症時入院していた頃は患者の中では若い方でしたが、今はそこそこになりました。

一度バスで出かけた時に転んで腕を骨折してからは怖くなって、週4日の送迎と月1回の検診にタクシーで出かける他には外出しません。

家の外では杖をつかなくてはなりませんが、買い物はネットで届けてもらい炊事、洗濯、掃除など家事のほとんどはゆっくり時間をかけてやっています。

これが若い頃に考えていた今とは全く違う今。

 

これからも思いもしないこれからが、起こるだろうと思います。

それは少し怖いけれど、わくわくもさせられます。

なぜなら今までに辛いこともあったけれど楽しいこともあったし、喪った人もいるけど出会った人も沢山いるから。

もう、これからは始まっていて、まずここでこれを読んでくれているあなたと出会いました。そしてまだまだ起こるこれからのことを、書いていこうと思います。

どうぞよろしく。